
◆ 未選択(1) ◆ 生活者ネットのこれまで(4) ◆ 今、わたしに見えているもの(3) ◆ 市民にできること(3) ◆ 生活者ネットのこれから(2) ◆ 政治って(1) ◆ タケヤブとネット(2) ◆ お知らせ(2) ◆ タケヤブの個人的意見(1)
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タケヤブ
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活字中毒者です。あとはおしゃべり。
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このブログをはじめるにあたって
タケヤブとネットの出会いについて、まず明らかにしておこうと思う。
わたしは1954年うまれ。大学入学は73年だ。
不発(?)に終わった70年安保の後とはいえ、教授の中には80年には君達もたちあがれ、俺もやるという人もいた。全共闘運動的なムードはまだ続いており、ジクザクデモにフランスデモ、バリケード封鎖やレポート試験も経験している。しかし、全共闘世代とは一線を画していた。
たとえば、あの「われわれはぁ〜」という演説口調にうんざりしていたからだ。
活動する学生と一般学生の間にたって、そのことばじゃだめだ。通じない。。といつも考えていた。
当時いわれていたことが、「闘いを生活の場にひきずりおろす」ということだった。なんらかの政治課題にむけて巻き込んでいく、動員型の政治運動への見切りがあったのだと思う。だいたい、こ難しいことを超難しいことばでハンドマイクでアジってたって、誰が聞くかって。そんなもん自己満足でしょうに。私はそう思っていた。みんなそう思っていたと思う。
この考えかたの歴史は古い。
生協運動や、産直運動はこの考え方からきている。
生活者ネットワークの母胎となった生活クラブ生協も60年安保の敗北から社会党系の活動家が立ち上げたものだ。
活動を生活そのものの中に求めていくこと。これはまったくダタしいと思う。
民主主義とはそういうことだろう。
例えば、自衛隊の海外派兵反対という政治課題があったとして、(その内容には全く賛成だが)それを国家に訴えていくという活動は、市民にとっては非日常であろう。非日常である限り、それはお祭りであり、一夜の花火で終わってしまうのだ。そういう活動も非常に大事だ。しかし、その活動が実を結ぶためには、日常によって支えられていなければならないと思う。
市民の暮らしの中に根付いていなければ。広汎な運動にはならない。広汎にならなければ、成果はあげられない。
60年安保があれだけの広がりをもったにもかかわらず、条約は継続された。まだまだ、あの程度の広がりではだめだったということだ。一方で、あれほどの運動はその後展開されていないにもかかわらず、変化していることもある。たとえば、ゴミの分別収集、リサイクル活動、石鹸運動など。これらは市民がみずから自分たちの不自由をうけいれることで活動してきたことが、広がってきたものだ。また登校拒否がひろく理解されるようになって、不登校と変化してきたこと。これらは、まさに生活課題なのだ。
生活の中にある問題を発見して、それを担っていくことで市民は成長する。またそれが日々直面する問題だからこそ、活動は日常の中でおこなわれ、人々の生活形態を変える。そして人や組織のあらたなネットワークを作っていくのだ。
というわけで、大学の中でいろいろの活動した結果、わたしは大学院に進学し地域共同体の問題について研究することにした。学部時代くる日もくる日も一緒にむれていた仲間達は、見事なほど一般企業に就職せず、自営の塾をつくったり、放浪にでたり、職能組合の専従職員になったりした。そのうちの一人が生活クラブに就職したの当然と言えようか。
彼との縁で、私は生活クラブにはいる。
1987年だ。生活クラブにはもれなくネットがついてくる時代だった。そのころ統一地方選もあり、マドンナ旋風が巻き起こった参議院選もあった。わたしは共同購入班の若い母親達と一緒にせっせとバザーをやって、パウンドケーキを焼いていた。大きなボールを各自あるだけならべてハンドミキサーを両手にもってパウンドを一日20台くらい焼いたことがある。楽しい活動だった。だいたいが私にとっては女どうしで政治活動するということがはじめてだったのだ。
「政治を生活の道具に」というスローガンに反対する理由はまったくなかった。
まずはここまで。
最初っから昔話の連載で、どうよ。という声もあろうかと思いますが、とりあえず始めます。よろしく。
タケヤブとネットの出会いについて、まず明らかにしておこうと思う。
わたしは1954年うまれ。大学入学は73年だ。
不発(?)に終わった70年安保の後とはいえ、教授の中には80年には君達もたちあがれ、俺もやるという人もいた。全共闘運動的なムードはまだ続いており、ジクザクデモにフランスデモ、バリケード封鎖やレポート試験も経験している。しかし、全共闘世代とは一線を画していた。
たとえば、あの「われわれはぁ〜」という演説口調にうんざりしていたからだ。
活動する学生と一般学生の間にたって、そのことばじゃだめだ。通じない。。といつも考えていた。
当時いわれていたことが、「闘いを生活の場にひきずりおろす」ということだった。なんらかの政治課題にむけて巻き込んでいく、動員型の政治運動への見切りがあったのだと思う。だいたい、こ難しいことを超難しいことばでハンドマイクでアジってたって、誰が聞くかって。そんなもん自己満足でしょうに。私はそう思っていた。みんなそう思っていたと思う。
この考えかたの歴史は古い。
生協運動や、産直運動はこの考え方からきている。
生活者ネットワークの母胎となった生活クラブ生協も60年安保の敗北から社会党系の活動家が立ち上げたものだ。
活動を生活そのものの中に求めていくこと。これはまったくダタしいと思う。
民主主義とはそういうことだろう。
例えば、自衛隊の海外派兵反対という政治課題があったとして、(その内容には全く賛成だが)それを国家に訴えていくという活動は、市民にとっては非日常であろう。非日常である限り、それはお祭りであり、一夜の花火で終わってしまうのだ。そういう活動も非常に大事だ。しかし、その活動が実を結ぶためには、日常によって支えられていなければならないと思う。
市民の暮らしの中に根付いていなければ。広汎な運動にはならない。広汎にならなければ、成果はあげられない。
60年安保があれだけの広がりをもったにもかかわらず、条約は継続された。まだまだ、あの程度の広がりではだめだったということだ。一方で、あれほどの運動はその後展開されていないにもかかわらず、変化していることもある。たとえば、ゴミの分別収集、リサイクル活動、石鹸運動など。これらは市民がみずから自分たちの不自由をうけいれることで活動してきたことが、広がってきたものだ。また登校拒否がひろく理解されるようになって、不登校と変化してきたこと。これらは、まさに生活課題なのだ。
生活の中にある問題を発見して、それを担っていくことで市民は成長する。またそれが日々直面する問題だからこそ、活動は日常の中でおこなわれ、人々の生活形態を変える。そして人や組織のあらたなネットワークを作っていくのだ。
というわけで、大学の中でいろいろの活動した結果、わたしは大学院に進学し地域共同体の問題について研究することにした。学部時代くる日もくる日も一緒にむれていた仲間達は、見事なほど一般企業に就職せず、自営の塾をつくったり、放浪にでたり、職能組合の専従職員になったりした。そのうちの一人が生活クラブに就職したの当然と言えようか。
彼との縁で、私は生活クラブにはいる。
1987年だ。生活クラブにはもれなくネットがついてくる時代だった。そのころ統一地方選もあり、マドンナ旋風が巻き起こった参議院選もあった。わたしは共同購入班の若い母親達と一緒にせっせとバザーをやって、パウンドケーキを焼いていた。大きなボールを各自あるだけならべてハンドミキサーを両手にもってパウンドを一日20台くらい焼いたことがある。楽しい活動だった。だいたいが私にとっては女どうしで政治活動するということがはじめてだったのだ。
「政治を生活の道具に」というスローガンに反対する理由はまったくなかった。
まずはここまで。
最初っから昔話の連載で、どうよ。という声もあろうかと思いますが、とりあえず始めます。よろしく。
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